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「天馬」最後の傑作 セキテイリュウオー | コラムニスト:FUKU | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 8歳春まで26戦5勝・2着7回3着1回。 これがセキテイリュウオーの全戦績である。 その内容をもっと詳しく見てみよう。 5歳暮れまでに20戦のキャリア。立派の一語に尽きる。 しかし、6歳〜8歳春までは僅かに6戦。 長期休養を挟むこと実に3度。 ディセンバーS・東京新聞杯と続けて59キロを背負いながら2連勝し、さぁこれからが性能披露宴・・・ と誰もが思った矢先の8ヶ月に及ぶ休養。 本来ならベストと思われるマイルのG1に、生涯、遂に一度も出走できなかった。 身体の不安・運のなさと闘い続けた4年余りの競走生活だった。 デビューは'91年12月の中山・芝・1800メートル。 2着に敗れたが、中2週空いた2戦目で勝ち上がった。 その後2戦勝ち切れなかったところで、蛯沢騎手から田中勝春騎手に乗り替わり。 以降、'93宝塚記念の南井騎手以外、全て田中勝騎手が騎乗した。 500万条件を3戦して6-3-2着の後、格上挑戦で皐月賞への最終便・若葉Sに出走。 生憎の重馬場の中での快勝。勇躍皐月賞へと駒を進めた。 ファンは彼を3番人気に推した。しかし、3歳チャンピオン・ミホノブルボンに歯が立たずに6着。 続くダービーもブルボンから大きく離され9着。ぶっつけで挑んだ菊花賞、距離とそのローテが 嫌われて13番人気だったが、6着健闘。中3週で挑んだディセンバーSは2着。 彼自身が自分が最も輝ける舞台を追い求めていた・・・そんな4歳時だったのではないだろうか。 明け5歳。前走から中3週で出走した中山金杯は2番人気に支持される。 そして直線、カリブソングに競り勝って重賞初制覇。さぁこれからが本番・・・と思わせたのだが、 4歳春のもどかしいレースぶりに逆戻りしてしまう。次走・目黒記念から宝塚記念まで、 4-5-2-4-4と掲示板には載るものの、いかんせん勝ち切れないのだ。 夏を休養に充て、復帰初戦の毎日王冠を2着。シンコウラブリイの後塵を拝したものの、 ヤマニンゼファー・イクノディクタスらに先着し、密かな期待を抱いて挑んだ天皇賞・秋。 相手はヤマニンゼファーらの毎日王冠組に、彼と同期で復活を期す菊花賞馬・ライスシャワー、 名脇役では終わりたくない未完の実力馬・ナイスネイチャ、重賞2連勝中の快速馬・ツインターボ などなど、なかなかの強敵揃い。リュウオーは6番人気になった。 レースはツインターボがいつも通りハナを奪うが、これをヤマニンゼファー・ナイスネイチャらが追いかける。 4コーナーでツインターボが苦しくなったところへ、ヤマニンゼファーが進出・リュウオーも これに取り付いて最後の直線へ。 直線に向いてからは、ヤマニンゼファーとリュウオーの一騎打ち・壮絶なマッチレースとなった。 両者一歩も譲らぬ叩き合い。しかし、そのさなかにアクシデントが発生した。 リュウオーの鞍上・田中勝騎手の手からムチが滑り落ちてしまう。田中勝騎手は仕方なく懸命に 手綱をしごいて追うが、最後の最後の数完歩でムチを使えなかったことが響いた。ハナ差の2着。 レース後、田中勝騎手の目からは悔し涙が溢れていた。 ”ちゃんと追えていれば勝っていました。” この言葉が全てを表していた。 その後、中4週でディセンバーSを快勝。59キロの酷量を問題としない勝ちっぷりで1番人気に応えた。 次走の有馬記念は7着。翌'94年の東京新聞杯は再び59キロを背負ったが完勝。 悲願のG1制覇へ視界良好・・・と思われた矢先、8ヶ月の休養。 10月の毎日王冠で復帰・日本レコードを叩き出したネーハイシーザーの8着に敗れた後、秋の天皇賞へ。 直線で故障を発症したビワハヤヒデ・ウイニングチケットが後退してゆく中、前を行くネーハイシーザーに 詰め寄るが、及ばず。2年連続の2着惜敗。 そして再びやってきた8ヶ月の長期休養。 ベストの舞台と思われた安田記念・マイルCSには出走すら果たせなかった。 明けて'95年、安田記念に間に合わず、復帰は7月の高松宮杯(G2・芝・2000メートル)。 同期のマチカネタンホイザの7着。もともと鉄砲駆けしない馬だから・・・と思ったら、また長期休養(7着)。 しかし、諦めない。悲願のG1へ。闘いはまだ続いた。 しかし、衰えは隠せない。復帰戦の'96年2月4日・東京新聞杯。トロットサンダーの6着。 中4週で挑んだ中山記念。サクラローレルの9着。そして、引退。安田記念への出走は叶わなかった。 現在、彼は”天馬”トウショウボーイの最後の傑作として、3冠馬ミスターシービーに次ぐ”天馬”の 牡駒の代表として、種牡馬生活を送っている。これから中央でも出走して来るであろう彼の産駒達に、 彼自身の無念を晴らして欲しい。 そのようなドラマこそがファンの心を捕らえ、そして競馬を支えてゆくのだから。 セキテイリュウオー全成績
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